2005年03月04日
●幡ヶ谷さん。
うそ日記。ウォーミングアップ。
---
その老婦人は日曜日の昼下がり、計ったように同じ時間に幡ヶ谷三丁目の裏路地に飼い犬と共に現れる。毎度俺はまず犬に目をやる。黒い毛並みが程よく手入れされた小さな犬だ。そして彼女を見る。犬共々、歩く姿に気品溢れる初老の女性が俺に向かって会釈する。俺も釣られて会釈する。毎度のことだ。
この界隈でもあまり知られていないが、実をいうと彼女は「幡ヶ谷さん」と呼ばれるこの道30年の「歩くコーヒー屋」なのである。焼き鳥屋のおばさんがずっと前俺に教えてくれた。もちろん俺は理由を聞いた。しかし野暮の一言で片付けられ、そしてつまり、この気品ある女性が何故にそのような奇抜な趣味を持つのか俺は未だに知らないのだ。
俺は偉いと思う。そんな状況で、俺はこの間彼女に言い放ったのだ。すれ違いざま。
「ブルーマウンテン、1つ」
するとどうだ。
老婦人の目がランランと輝き、犬がわんと一つ吼えた。そう、それが、「幡ヶ谷さん」の唯一のメニューであり合言葉なのだ。その瞬間、どこにでもいる老婦人は、コーヒー職人「幡ヶ谷さん」になるのだ。
幡ヶ谷さんは、おもむろに手持ちのバッグから豆を取り出す。エルメスだ。エルメスから最上級の豆だ。多分最上級だ。そんな気がするのだ。彼女は涼やかな笑みを見せながらコーヒー作りを始める。ところで、豆しかない。どうやってコーヒーを作るのだろうか、と不思議に思っていると、足元の犬がまたわんと吼えた。
犬が口を開ける。更にわんと一吠え。それに呼応するように幡ヶ谷さんは微笑む。
次の瞬間、最上級の豆は犬の口腔の中に消えて行く。犬が咀嚼する。反芻をする。もんどりうつ。
あまり美しい光景では無い。傍らの幡ヶ谷さんとのミスマッチに違和感を覚える。
「フジテレビとライブドア、どうなるのでしょうね・・・」
それまで沈黙を守っていた幡ヶ谷さんが俺に話し掛ける。コーヒーが出来るまでのいくらか時間、客を退屈させないように、だ。いや、多分、そうだ。
幡ヶ谷さんは全てを知っている。何故だろうと思う。俺に向けられた全ての話題は、その時その時に俺の中でカレントな話題ばかりだ。理由を聞いたところで、彼女は教えてはくれない。
そうこうしているウチに、犬が再びワンと吠えて口を開ける。
幡ヶ谷さんは、真っ白な紙コップを彼の口にあてがう。
するとどうだ。犬の口から、ほのかに湯気のたった茶色の液体が紙コップに注がれる。
ブルーマウンテンが出来あがった瞬間だ。芳醇な香りが俺の鼻を刺激する。本物の香りだ。
犬に目をやる。
俺を見ている。飲むのを急かしているかのようだ。
幡ヶ谷さんが犬をなでる。どことなく満足そうなのだが、良く考えてみると、この犬も不思議だ。いや、考える必要もないか。見れば見るほど、どことなく生物らしい温かみに欠けるような・・・。
俺の邪推をさえぎるように、涼やかな微笑みと共に幡ヶ谷さんが俺にコーヒーを差し出した。受け取った俺は、音をたてながらコーヒーをすする。
飲み終わるまで、再び彼女はねぎらう様に犬を愛でる。
俺がコーヒーを飲み干すと犬がワンとまた吠えた。
俺が「美味しかったです」というと、彼女はまた微笑んだ。
そして何も言わずに彼女は散歩を続け消えて行く。明日も。明後日も。
東京の片隅で見も知らぬ老婦人とすれ違った日曜の昼下がり、俺はそんなことを考えていた。
ちなみに俺はコーヒーが飲めない。
このエントリーのトラックバックURL:
http://webcopoo.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/81
» 未知との遭遇 from 見るな!
今日の夕方、学校から家に帰っている途中ふと足元を見ると大きな段ボール箱が置いてあったんです。
よく見ると段ボール箱には「拾ってください。オス、31歳です。」と... [続きを読む]
サイン・インを確認しました、 . さん。コメントしてください。 (サイン・アウト)
(いままで、ここでコメントしたとがないときは、コメントを表示する前にこのウェブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)